寮生活
寮生活は辛かったな。笑
だけど両親への感謝の気持ち、仲間の大切さを改めて感じました。
中学卒業後、青森県の光星学院に進学しました。
出身が関西ですので強制的に寮生活となりました。
入寮時の印象はとりあえず、先輩が怖すぎてこれからどうなっていくのか不安でいっぱいでした。
洗濯も自分でやったことがなかったのでユニフォームがこんなに汚れているのをいつもきれいに洗ってくれていた母親に感謝でした。
全く自分の時間がないのでストレスだらけでした。
中学時代に比べ練習量も多くなり、ついていくことで精一杯でした。
入寮して三日目で家に帰りたくなりましたが、関西から一緒に行った10人の仲間がいたのでなんとか頑張れました。
寮生活は6時30分に点呼、その後、寮の掃除、先輩から朝ご飯を食べたのち、1年生は最後に食事でした。
7時40分に寮からバスで学校へ向かい、学校に着くと学校内の清掃、冬場は雪かきがルーティーンでした。
授業は月、火が6時間授業で水~金が4時間授業終了後、夜8時くらいまでが練習でした。
土日は、一日練習で、月に1度月曜日が休みかどうかといった月度の流れです。
練習終了後は、先輩から食事、その間に洗濯などを済ませて食事をした後に、お風呂に入り23時間前照灯。(豆電球もダメでした。笑)
こんな生活を3年間もしたら根性も付きますよね。笑
親の有難み、仲間の大切さを改めて感じた寮生活の始まりでした。
イップス(得意なことが出来なくなる辛さ)
イップス・・・
自分の野球人生を狂わせてしまった。
数カ月が過ぎ、練習にも少しずつ慣れてきて2つ上の学年の先輩と一緒に練習させていただける機会が増えました。
緊張する中での練習で自分の野球人生を変えてしまうことが起こりました。
2つ上の学年の方と混じって体育館での練習時に複雑なボール回しをしていたのですが、しっかり投げようと思い緊張のあまり暴投をしてしまいました。
その時、体育館にボールの音が響き渡りました。
そこから特に短い距離が投げれなくなり、ひどいときは地面に叩きつけるような時もありました。
周りからはなんでそんなことになるのか理解はされず、そのまま野球を続けることの辛い時間が続きます。
キャッチボールやボール回しなどができなくなり、投げることが得意だったのにすべて奪われた感覚でした。
今でも少しはましになりましたが、完全に投げることができません。
得意だったことが出来なくなり他のすべてのことにまで自信がなくなりました。
そこから内野手が出来なくなり外野手となりました。
この時を振り返るとなぜあんなことになってしまったのかと悔いは残るものの、自分のできることはバッティング、走塁だと気持ちを改めるようにしました。
出来ていたことが出来なくなる辛さ、ケガのように時間が経てば治るなら、まだ気持ちの整理はついたかもしれません。
過去を振り返っても仕方ありませんが、イップスが治るならどんなことでもやると今でもその思いは変わりません。
イップス参考記事↓
甲子園出場
自分が1年生時に3年生が甲子園ベスト8に入りました。
2つ上の学年が夏の青森県大会で優勝し、甲子園の出場が決まりました。
自分はベンチに入っていなかったのでスタンドの応援となりましたが、関西に帰るので久しぶりに家族と会えることになりました。
家族と離れて過ごしたのは3カ月程度でしたが、すごく長い期間会っていなかった感覚でした。
甲子園の応援に行くにはバスで片道10時間以上かけていきました。
今思えば窮屈でよく耐えたなと・・・笑
無事1回戦も勝つことができ、次の試合まで期間が空くのでまた、青森にバスで帰りました。
その後、また甲子園にバスで向かったのですが、2回戦も突破し、関西人は実家に帰ることが出来ました。
家ではご飯もあたたかくおいしいし、家のことはすべてやってくれるので自分のことを送り出してくれた家族には今でも頭があがりません。
その時は、実感できなくても時間が経って自分で感じることや振り返ることが大人になって多くなりました。
この時絶対に自分が甲子園に出て家族に恩返しをするんだと決意しました。
この時の甲子園での成績はベスト8で、東北高校に2-1で負けてしまいました。
ダルビッシュ選手は、終盤に投げてきたのですが素晴らしい試合でした。
秋季大会
1つ上の学年から背番号は二桁というものの
レギュラーとして試合に出させていただきました。
1年生の秋になると、練習試合に1番バッターで試合に出る機会が増えました。
今思えば、この時が野球人として一番成績を残していたと思います。
どんな投手でも打てない気はしなかったですし、少し高校生をなめていたと思います。
秋季大会は青森山田高校に勝ち、優勝しました。憧れていた甲子園出場までもう少しのところまで来ました。
東北大会で勝つことが出来れば、甲子園出れる、夢が叶うと気負いはありました。
東北大会1回戦は6番レフトで出場しました。
結果は負けてしまい、自分の成績は初めて1試合で3三振をするという結果でなおかつ、最後のバッターになってしまいました。
その場面は新聞にも載り、自分が頭を抱えてバッターバックスで立ちすくむという記事が翌日出てしまいました。
この瞬間、1つ上の学年の選抜出場は消えてしまいました。
あれだけ調子が良かったのに自分の力のなさを痛感しました。
この冬、頑張って練習をして、夏の大会のベンチに入って甲子園に必ず出場してやると強く思いました。
膝のケガ
膝がロックされて動かない。。。
冬の練習に近づくにつれて、膝の様子がおかしくなってきました。
屈伸などをするときに痛みが出て何か神経にあたるような激痛が走る感覚になりました。
中学時代も膝のケガを抱えていたのですが、中学時代よりも痛みが激しくあらわれるようになりました。
その後、病院などに通院し冬場はほとんど練習が出来ずに帰省の時期を迎えました。
下半身のトレーニングが出来ずに上半身の筋トレ、椅子に座りながらのスイングなど限られた練習しか出来ずに悔しい思いをしました。
秋の東北大会の悔しさをこの冬にぶつけるつもりだったのに、全く練習できずに周りの目も痛々しく感じました。
ケガの痛み、周りのメンバーからの故障者は練習しなくていいなといった冷ややかな視線は本当に辛かった。
練習がしたいのにできない、甲子園に出るために野球留学までして青森県に来たのに、目標を見失ってしまい心身ともに落ち込んでいたのを今でも覚えています。
その後、不完全燃焼のまま実家に帰省しました。
そんな自分でも家族は明るく振舞ってくれて2週間の長期休みを堪能しました。
次回
そんなこんなで挫折だらけの高校生活の始まりでした。
丈夫な体を持っている人(もちろん本人の努力も含め)が本当に羨ましかった。
プロ野球選手はみんな上手いのは当たり前で、この部分が長くやっていくには欠かせないのだろうと思います。
イップスもなんでなってしまったのか?
よく精神面だと言われるのはわかるのですが、未だに治らない怖さ、辛さ。
草野球でも投手がしたいのに素人の方が普通に投げれる。
自分は小学校から何十年もやってきていてなぜできないのか・・・本当に謎ですが・・・おそらくイップスになった人にしかこの心境はわからないと思います。
次回は、あの選手のことや最終学年のことを書きたいと思います。
いつもご愛読いただきありがとうございます。
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